世界の中心で愛を叫んだけもの 世界の中心で愛を叫ぶ

ざっと見てわかるように、悪徳とされるものは積極的な態度であるのに対し、美徳とされるものは消極的な態度であるように思われます。 TwitterのTLで、早川書房さんから、「悲しいニュースをお伝えします」とか流れてきたんですけど、わたしは別に悲しくはなかったです。もはやいいお年で、新作をそんなに書いているわけでもなし(こないだ短編集の翻訳が二冊出ましたけど古いやつです)、そもそも翻訳がまったく出ていませんがなんか事情があるんでしょうか、日本の原稿料が安いからとかいう話もありますけど、ほんとなんですかね? あ、”Can & Can’tankerous” は2010年あたりの作品を集めたものらしいので、面白いんだったら読んでみたい。というのも、「世界の中心で愛を叫んだけもの」などはたいへん冷戦的な話ですから、エリスンが9.11以降、どんな話を書いたのかという点にはいささか興味があるわけです。(とはいえ、英語で読むほどの気持ちはない。), というわけで、今週はずっとエリスンについてなんか書こうとしていたんですけど、そしたらこんどは歌丸師匠もお亡くなりになられたそうで、こちらはエリスンとは違っていささか悲しいニュースかもしれません。つまり、歌丸師匠の芸は、彼が現に生きていることと切り離せないわけですけど、小説家の死は、その死がなにか彼の書いたものに関係あるかというと、すでにして書かれてしまった時点で作者と作品はあまり関係なくなっているわけで、つまり作者は書いた時点ですでにある意味死んでいるわけで、といったのはバルトですけど、今更実物のエリスンが死んだからといって、わたしにはあまり関係ないというか。, という話はさておき。エリスンといえば日本では長らく『世界の中心で愛を叫んだけもの』 “The beast that shouted love at the heart of the world”(短編集)が翻訳されただけで、雑誌でちょこちょこ翻訳されてはいましたが、長らく(40年ほど?)ほったらかしにされていたわけです。ですからわたしも、エリスンといえば「けものの人」としてしか知らなかったわけですが、「けもの」は大学生の時に初めて読んで、なかなか面白いと思いました。最初に読んだのはもう四半世紀前ですが、とくに「けもの」はことあるごとに読み返していたので、たぶんかなり好きな方なんだろうとおもいます。, というわけで、追悼の意をかねて、「世界の中心で愛を叫んだけもの」を解釈してみようと思います。14ページと短いものなので、読んだことない方は是非読んでみたらいいと思います。ハヤカワ文庫です。, いきなり解釈するのも不親切なので、まずはいちおうあらすじ的なことを書きます。読んだことある方はとばしてください。, 題名にある「世界の中心」 “the heart of the world” とは、交叉時点 ”crosswhen” という場所(都市?)のことで、文字通りいろいろな時間線が交わる不思議な場所です。で、そこにさまざまな種族の代表による代表委員会があります。これが何を統治しているのかというと、狭義にはcrosswhen内を統治しているようですが、間接的には、crosswhenの「外」の時空にも影響を及ぼしているようです。具体的にはわかりませんが。つまり、crosswhenは、空間的にはともかく、時間的には文字通り世界の中心にあるといえます。, で、この世界の中心のある場所で、あるとき「気違い」が暴れて捕らえられます。(詳しくは書かれていませんが、たくさんの人を殺したようです。)「気違い」は七つの頭を持った竜で、「残存感情を浄化するために閉鎖されていた」レベルに潜んでいたのですが、そこで感情を探知するマシン(スペクター)から逃れようと思って、自分の感情を自閉させます。, 気違いは最後のチャンスに賭けた。彼の心、七つの脳ぜんぶを、閉鎖したのだ。藤色レベルが閉鎖されたのと、そっくり同じように。すべての思考を閉ざし、感情の火を灰に埋め、心に動力を送る神経回路を切断した。(中略)思考に関するかぎり、竜は存在をやめた。スペクターは、そこに探知すべきなにものをも見出だせず、素通りしていった。しかし、気違いを追っている相手は正気で、彼のように狂ってはいなかった。彼らの思考は筋道立っており、そして、筋道立ったやりかたであらゆる事態を計算に入れていた。スペクターにつづいて、熱探知波が、質量計測センサーが、そして閉鎖レベルでも異分子の臭跡を狩り出すことのできる追跡装置がやってきた。(pp.  この短編集のタイトルにも選ばれた『世界の中心で愛を叫んだけもの』では、規格に合わないものを排除し、刺激もなく生き延びることだけを目的とする社会を批判し、さらに自分たちの生活の安寧のためには他の世界の暮らしなど省みない社会を批判する(これはつまり、当時の代理戦争のことではないだろうか)。『眠れ、安らかに』では、世界から戦争をなくし、同時に人類の進歩をもなくした権力を葬り去り、ふたたび競争のある世界を取り戻す。『サンタ・クロース対スパイダー』は世界を混乱と無秩序に陥れる悪者として、当時の政治家たちを実名で批判する。『殺戮すべき多くの世界』では偽善と策謀にまみれた現代国家群を破壊し、「すべての世界が相互信頼のうちに結び合わされる」ことを夢見る。 ハーラン・エリスン(Harlan Jay Ellison、1934年5月27日 - 2018年6月28日[1][2])は、アメリカ合衆国オハイオ州生まれの小説家。SF作家、脚本家。別名にエリス・ハート(Ellis Hart)、スレイ・ハーソン(Sley Harson)、コードウェイナー・バード等がある。, テレビドラマの脚本家としては『バークにまかせろ』『宇宙大作戦』『ルート66』『アウターリミッツ』『アンタッチャブル』『原子力潜水艦シービュー号』『0011ナポレオン・ソロ』『ヒッチコック劇場』他を手がける。, サミュエル・R・ディレイニー、ロジャー・ゼラズニイとともに、アメリカのニュー・ウェーブを代表する作家。本人は「SF作家」と呼ばれることを避け「fantasist」と自称している。, 1934年、オハイオ州クリーブランド生まれ[3]。両親はユダヤ系アメリカ人である。, 1949年に初の短篇小説“The Gloconda”と“The Sword of Parmagon”をクリーブランド・ニュースに寄稿[3]。, オハイオ州立大学に入学するが、18か月後には素行不良で退学処分になる。エリスンによると、退学になったのは彼の文章力をけなした教授と衝突したためであり、エリスンはそれ以後の40数年間、自分の作品が活字になるたびにその教授へ作品のコピーを送りつけた[4]。, 1965年以降は安定して質の高い小説作品を産み出しつづけたが、長編は少なく中短編がメインの「短編型作家」であった。日本では、伊藤典夫・浅倉久志が邦訳のほとんどを担当していた。1987年発表の短編「ソフトモンキー」以後は作品は邦訳がなかった。, https://locusmag.com/2018/06/harlan-ellison-1934-2018/, “Books in Review, "Of Stories and the Man. 「あれは残り滓。無害だ。超感覚者のグループからとった試薬で、中和できる。危険なエッセンス、場を作っていた退廃性の力線――それらはもうない。すでに排出された」 ライナは、はじめて顔色を失った。「それらをどこへやったんだ?」 要するに、自他の関係において、生あるいは現世的な対象(他者)に積極的に(激しく・過度に)関わろうとする態度(エモーション)を悪い言葉で表現すると「七つの大罪」になり、そうした欲望的エモーションを抑制する態度をよい言葉で表現すると「七つの美徳」になるのだと思います。(いささか片寄った物言いだという異議は認めます。), さて、「愛を叫んだけもの」において、竜の「狂気」とされているものは、具体的には他者を殺害したり、何かを破壊しようとしたりするエモーションのことで、これはもちろん、単純に「善か悪か」でわけるとすると、「悪」に相当します。その点では、ライナもセンフも同じ考えのようです。, しかしながら、狂気をcrosswhenから排出してしまえば、とりあえずcrosswhenの平和は保たれるし、それがひいては世界全体のために良いことだとするライナに対して、センフはそうは考えていません。, 二人の立場の違いは、一見すると、 「世界」の「中心」で「愛」を「さけぶ」。これでもか、これでもか、という畳みかけんばかりの仰々しさである。 しかも、ハーラン・エリスンの「世界の中心で愛を叫んだけもの」のあからさまなパクリ(あるいはオマージュというのだろうか)。 さて、最後まで読んで思ったのは、これはアメリカ版筒井康隆ではないか。いろんな意味で。 つまり、「中心」と「外の世界」は、中心から排出された「狂気」によってこそ、互いに関係しあうことができるということです。もちろんこの場合、互いに関係するといっても、中心から外の世界へというベクトルを持った動きであるわけですが。, しかしながら、二つの項の間の交通が可能であるのは、逆説的ですが、二つの項がそれぞれ別の項であり続ける限りにおいて(互いが自己同一性を保持し続ける限りにおいて)です。 新海誠監督の君の名は 確かに良かったが 33-34) 外の世界が、最終的に自己同一性をそこなってしまわないように、「狂気」の流入を中断するということが、センフにおける愛なのだと思います。ライナ的なスタティックな愛と、「狂った愛」との間で、どちらか一方に偏らないようにバランスさせること。それによって、中心と外との恒常的な交流を可能にするということが、センフの目指した愛だったのだと思います。, センフの愛についてまとめ という意味になりますね。(ソクラテスに、牢番を買収したから逃げてくださいといったら、死ぬのを避けるために死ぬ(精神的に死ぬ)ことはできない的な正論を言われて、なんだこいつ、みたいな話ですね。), ただし、センフの考えは単にそれだけとも思えず、もう一段ひねりが加わっているように思います。というわけで、次の問題に進みます。, (ア)ライナにとっての愛 「少年と犬」が一番面白かった。最後の話の落とし方なんかもなかなかウィットに富んでいていい。, タイトルをパクった本の方が流行っているようだが、もちろんこちらがオリジナルだ。内容も似ても似つかない。オリジナルの方が面白いと断言しておこう。(私は恋愛小説などには全く興味がない), 何度読んでもわからなくて悔しい作品なのですが、この作品の暴力と愛と哀とどうしようもない衝動とかそういうのに浸れるだけである意味幸せなのかもしれない。, この狂気と暴力と愛に、まっすぐに向きあって受け止めるだけの度量は、私にはまだない。すべての短編に満ちる、痛ましいほどのエネルギー、常軌を逸した凶暴さ。彼の書いたのはサイエンス・フィクションではなく、スペキュレイティブ・フィクション=危険をはらんだ物語なのだから。 ●「気違い竜」は、狂気の排出が完了したときに、「正常な人間」になった、と述べられていること。 センフは疲労の色濃い表情で、ゆっくりとかぶりを振った。 萌えはない。. ライナ的な「愛」に対して、「きみは彼らをつねにそれ(狂気)といっしょに暮らすことにさせた。愛の名においてだ」というセリフからわかるように、センフは批判的です。, 「排出後に残るものは持つ価値のないものだ」というセリフからは、センフが、(ライナが考えているような)単なる「正常な人間」であるだけではだめだという考えを持っているということが読み取れます。「狂気」的な部分を排出してしまうということは、人間性の重要な部分を喪失してしまうことになるのです。  スーパーバイオレンス作家というレッテルが一人歩きしている感のあるエリスンだが、彼を駆り立てるものに注目すれば、この本の真の姿が見えてくるはずだ。そして、エリスンが矛先を向けた悪が現代でもまったく変わらずに生きつづけていることを知るだろう。, このレビューは役に立ちましたか? 「きみは彼らのぜんぶに刑を宣告したようなものだ。狂気は生きた蒸気だよ。力だ。それをびんに閉じ込めることはできる。ただし、いちばん強力な悪霊を、いちばん栓の抜けやすいびんに閉じ込めるようなものだがね。そして、きみは彼らをつねにそれといっしょに暮らすことにさせた。愛の名においてだ」(pp. ●「そこ(中心)には平和がある」という点。 「世界の中心で、愛をさけぶ」っていう本がベストセラーになっていますが、これは2001年に出版された本ですよね。確かにいいお話ですが、なんで、今頃ブームになっているのですか? 35), ここでは、「外」の世界が、中心からアンビバレントな力をもらっているということが述べられており、それによって「外」の世界は人の生きる世界たりえていることがわかるわけですが、しかしながら、crosswhen自体は、いったいどこから力を得ているのでしょうか?, あるいは、「中心に入れば、そこには平和がある」と述べられているので、むしろcrosswhen自体は他からの侵入を受けていないスタティックな世界であるかのようでもあります。だとしたら、どうもわたしには少々問題があるように思えます。, それというのも、中心というのは、異次元への突破口であるからこそ「この世界」の中心たりえているわけで、言い換えると、中心が中心としての力を持つのは、そこにおいて異次元からの侵入があるからです。(参考、エリアーデ 『聖と俗』 pp.29-40 法政大学出版局) 「排出は終わった」とセンフがいった。 Your email address will not be published. ライナと気違い竜の立場は対立していますが、センフは、自分を排出機にかけることによって、そのどちらをも愛そうとした(アウフヘーベンしようとした)のだと思います。(反・狂気としての「正常さ」がなければ、「狂気」は「愛」になりえない。同時に、「正常さ」だけでは、やっぱり「愛」は不可能である。ということ。)←これ、なかなかうまい言い回しだと思うんですけど、どうでしょう?(要するに、わたしがセンフを通して言いたいことは、世界を生きたものにしておくためには、みんながそれを生きたものとして「解釈」しつづけなければならない、ということのようです。書かれたもの(作品)は、なにをどうやっったって、それだけでは「スタティックなもの」にすぎません。誰かがそれを「ダイナミックなもの」として読まなかったならば、作品は死んだままであらざるをえないのです。というわけで、エリスンに対しては、あとのことは任せろと言ってやりたいと思います。)(言わずもがなのことですが、排出による狂気の流入とセンフによるその中断という繰り返しを、永遠回帰として解釈するということです。ここでいう永遠回帰は、エリアーデの「永遠回帰の神話」からですが、もちろん、ニーチェの永遠回帰と思ってもらってもかまいません。要するに、終末論的・黙示録的なイメージではなく、不断に生成されるコスモゴニーというイメージです。), さて、crosswhenは「中心」ですから、時間の流れから超越しています。つまり、crosswhenで起こったかのように見える出来事(センフが排出法を開発したり、気違い竜を排出したり、センフが自身を排出したり、センフが死刑になったりといった出来事)は、実際には時間の流れのなかで起きた出来事ではなく、いうなれば世界創造(コスモゴニー)にほかなりません。(シジフォスやプロメテウスのように、竜とセンフは常に排出され続けており、センフの場合はさらに、ずっと死刑になり続けているといった感じでしょうか。) 「世界の中心で愛を叫んだけもの」のラストは、シュツットガルト(西ドイツ)のとある廃墟の中で、男が七色の箱を見つけ、その箱を開けたところ、中から「つむじ風」と、「翼を持った、顔のない黒いものの群れ」が飛び出し、その翌日、第四次世界大戦が始まったというエピソードで終わります。 ハーラン・エリスンの作品のタイトルは、ここに収録されているものも、そうでないものも、どれも魅力的だ。 JavaScriptが無効の場合は一部ご利用いただけない機能がございますので、有効にすることをお勧めいたします。, 【電子書籍ストア】<13,000商品以上!  さて、表題作の『世界の中心で愛を叫んだけもの』ですが、観念的で実験的な作品です。その物語の意味するところはまだ掴めてません(汗)。なんとなく分かるんだけど、どうしてもけものとその友人の思考が途中でねじれているような気がして。いずれにしても、冒頭で大量殺人鬼が人々を愛するが故に大量虐殺を行ったと言っているように、ここでいう「愛」は恋愛の「愛」ではないことだけは確かですね。, 前書きからして少し混乱し、表題作は一度では分からず。ちょっとぽかーんとした。 「気違い」をとらえるためのマシンは、第一にまずスペクターで、これはどうやら「気違い」の「狂気」を探知することができるマシンらしいです。で、「気違い」はそれから逃れるために、「無邪気」、「卑下」、その他、「九つの感情的偽装」をしたが無駄だったと書かれているので、要するに「狂気」というのは、「感情」の一種であるようです。, で、捕らえられた竜をどうするかという話になるわけですが、ライナという政治家が、センフという科学者に、竜を「排出」するように言い、センフは「排出」するのはもう少し待ってくれと言います。 でも、ブームはやはり柴咲コウさんの「感動した」という言葉が元になったということですね。柴咲コウさんってそんなにカリスマ性のある方なんでしょうかね。, ご回答ありがとうございます。そういわれてみると、最近の単行本の紙の厚さって以前より厚いような気がしますね。それに活字も大きい感じがしますし、行間も広いような気がします。いろいろなことがあるんですね。, yo-yaさん、ポイントをつけられなくて申し訳ありません。貴重な情報をありがとうございました。, ご回答ありがとうございます。仕掛け人の方がテレビで証言なさっていたんですか。ますます柴咲コウさん説が有力ということですね。 !>「500円で買えるんです!」セール, 性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示を調整できる機能です。ご利用当初は「セーフサーチ」が「ON」に設定されており、性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示が制限されています。全ての作品を表示するためには「OFF」にしてご覧ください。※セーフサーチを「OFF」にすると、アダルト認証ページで「はい」を選択した状態になります。※セーフサーチを「OFF」から「ON」に戻すと、次ページの表示もしくはページ更新後に認証が入ります。, 商品が電子書籍化すると、メールでお知らせする機能です。「メールを登録する」ボタンを押して登録完了です。キャンセルをご希望の場合は、同じ場所から「メール登録を解除する」を押してください。, まだ販売されていない電子書籍の予約ができます。予約すると、販売開始日に自動的に決済されて本が読めます。, ワンステップ購入とは、ボタンを1回押すだけでカートを通らずに電子書籍を購入できる機能です。, ここには、おもしろいものから、よくわからないもの、若いものから出来上がっちゃったものまで、幅広い作品が収められている。しかし、いくつかの作品からは共通する明確なテーマが読み取れる。それは、当時の政治システムへの怒りと、安定/停滞だけを目的とし規格外のものを排除する社会への批判である。そして、そんな鼻持ちならない世界を何とかしようと思うのだがどうあがいても何も変わらない、そんな焦燥感、絶望感が色濃くあらわれている。 いいえ, 噂に聞いていた、SFの名作。 受賞作品 > 世界の中心で愛を叫んだけもの 著訳者 > ア行 > ア > 浅倉 久志 > 世界の中心で愛を叫んだけもの 著訳者 > ア行 > イ > 伊藤 典夫 > 世界の中心で愛を叫んだけもの 著訳者 > ア行 > エ > エリスン, ハーラン > 世界の中心で愛を叫んだけもの ジャンル > SF > 世界の中心で愛を叫んだけもの 「というと・・・・・・」 ハーラン・エリスンのSF小説『世界の中心で愛を叫んだけもの』(The Beast that shouted Love at The Heart of The World 1969年)や、同作のタイトルを参考にした庵野秀明監督のSFアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の最終話サブタイトル「世界の中心でアイを叫んだけもの」(1996年)から引用された可能性が指摘されている 。 Copyright © Dai Nippon Printing Co., Ltd. 割引きクーポンや人気の特集ページ、ほしい本の値下げ情報などをプッシュ通知でいち早くお届けします。. 表題作は正直難解でした。並行世界のパンドラの箱といった話でしょうか。宇宙征服だのハッパやりまくりラリって夢みた世界だの第三次世界大戦後だのSF的楽しいテーマでいろいろ書いています。 This site uses Akismet to reduce spam. ●大義(理念)のためにはある程度の非道は許される、つまり、全体のためには一部の犠牲は仕方がないという立場(ライナ)と、 ですから、外の世界とcrosswhenとの関係でいえば、常に、「中心から力・狂気・愛が流れ出している」ということになります。これによって、「外の世界」は「生きたもの」であり続けることができるわけです。, だが、もしそれを見出せば、彼らは知るはずだーー地獄が彼らとともにあることを、そして、天国と呼ばれるものが事実存在することを、そして、その天国の中には、そこからすべての狂気の流れ出す中心があることを。そして、ひとたびその中心へはいれば、そこに平和があることを。(p. ② 愛とはなにか? 歌丸師匠はその通りですね。間違いでした。 受賞作品 > 世界の中心で愛を叫んだけもの 著訳者 > ア行 > ア > 浅倉 久志 > 世界の中心で愛を叫んだけもの 著訳者 > ア行 > イ > 伊藤 典夫 > 世界の中心で愛を叫んだけもの 著訳者 > ア行 > エ > エリスン, ハーラン > 世界の中心で愛を叫んだけもの ジャンル > SF > 世界の中心で愛を叫んだけもの そうだとすると、気違い竜が「狂気ジェネレーター」のようなものとしてcrosswhenの中心であり、さらにセンフが「狂気」を排出することによって、crosswhenが世界の中心にもなったわけだけど、ただし、依然として中心としての竜はcrosswhenの中にいるのだということになりますね。 こんにちは。ハーラン・エリスンが亡くなったそうですね。 24-25), というわけで、気違い竜は気づかぬうちに捕らえられてしまいます。 読み終わったら、今度はバイオレンスに彩られた、ドライな世界に魅了された。, 表題作を読んでラストに辿り着いたとき、映画「セブン」を見終わった時のような感覚を覚えた。同じテーマを語っているという事ではなく、ラストでそれまでの伏線、断片の全てが符合し、テーマが昇華されるという点で似ていると感じた。七つの大罪のうちの最後の一つが、本来正義である主人公の手によって果たされることで、全ての人間が逃れられない業を背負っている事を表現した「セブン」に対し、この作品では、凶悪殺人犯が、自分は世界中の人間を愛していると言い、その存在が最後に記念碑となることが何らかのテーマの具現化となっている。どちらも象徴的な作品。だが、この作品の意味するテーマは未だ理解し得ない。, 古典の名著。似たタイトルのベストセラー小説があるが、中身は似ても似つかず。っていうかこういう本こそ読むべきなのにー。, 映画にもなった似たようなタイトルの日本の小説もあったようですが、本作とは無関係であるし、本作のほうが遥か昔からあったので以下省略。 教えてください。, 詳しいご回答ありがとうございます。実は私も、ハーラン・エリスンのSF小説やエヴァの話は聞いたことがあります。確かに題が似ていますよね。それも話題になった一因なんでしょうね。編集者が題名を変えた話も聞いたことがあります。著者のつけたタイトルは「恋するソクラテス」だったそうです。 ライナは、しかたがないというように、両手を広げた。 「排出」というのは、竜から「狂気」を取り出すことらしいですが、その方法を開発したのはセンフです。で、ライナはcrosswhenの平和のために、竜から狂気を排出すべきだと主張します。, (センフ)「しかし、ほかのあらゆる生物、あらゆる場所、遠い遠い昔から、神のみぞ知るはるかなパララックスの彼方までにこれが及ぼす災厄を、考えてみろ。われわれは自分たちの塒(ねぐら)の汚染を取り除くために、これまでに存在したほかのあらゆる巣に犠牲を強いることになるぞ」 「世界の中心で、愛をさけぶ」っていう本がベストセラーになっていますが、これは2001年に出版された本ですよね。確かにいいお話ですが、なんで、今頃ブームになっているのですか?映画にもなりましたが、映画と本とどっちが先にブー 「おい、たのむよ、センフ! わたしはそれがどこへ行ったのか・・・・・・いつへ行ったのか、と聞いているんだ」(pp. これは、竜が人間に変化した(排出された残りは、正常で無害なものになった)と書かれていることとは矛盾するようですが、しかしながら、crosswhenは通常の時間経過を超越した場所であるので、まあそういうことも起こるんでしょう。あと、外から見たら、「龍が排出された時点」というのは、ある時点として特定できないわけですから、依然として竜がcrosswhenの内部にいるともいえるのでしょう。(排出は過去現在未来にわたる力動だから。つまり、狂気の排出について、センフは「完了した(終わった)」みたいなことを言っていましたけど、crosswhenの特質上、排出という行為は、過去現在未来のすべてにわたって現在進行形で行われていると考えるべきなのでしょう。だとしたら、竜も常にcrosswhenの中に居続けるということになるでしょう。), というわけで、一点目はまあいいですけど、「中心」の内部が平和であり、「外」が「地獄」であるとされている点はちょっといまいちかなと思います。これってつまり、結局のところ「中心」と「外」との関係は、「加害」と「被害」の関係だということですよね。まあ、エリスンの考えではそうだったのだろうとは思いますが。(センフがライナに文句を言っているのは、ある程度本気で言っているのでしょう。)(わたしの解釈は、エリスンが考えていたのより、ちょっとセンフをかっこよく解釈してみたという感じではないかと思います。) 最大98%OFF! S.P.I.D.E.R. 確かにドラマも面白かったですし、主題歌もすごく好きです。ストーリーも泣けて純愛という感じがしますが、好きな人が病気でなくなって、というストーリーなら、セカチュー以外の小説にもあるはずです。 例えば高慢と謙譲の対比は、「自己が他者に影響を及ぼす(高慢)」か、「自己が他者に影響を及ぼされる(謙譲)」かの対立だということですね。また、大食と節制、肉欲と純潔などの場合は、むしろ主になるのは悪徳の方で、美徳の方は「大食をしないこと」、「肉欲を持たないこと」というように、否定的にしか定義できなさそうな感じがします。(純潔はそうでもないかな?) ③ 愛は世界の中心から外へと向かうが、中心は誰から愛されるのか?, 話の発端は竜=気違いですが、彼はどうやらcrosswhenの中にいたものらしいです。彼の狂気は、「感情」のようなものらしいですが(スペクターで検出できるから)、それが「狂気」とされるゆえんは、おそらく、彼が七つ頭だということと関係があります。彼が捕捉されて監禁され、センフとライナを見上げた時に、, と書かれています。つまり、「正常な感情」とは、一つ頭による一つのイメージなのですが、それが「七重」であることによって「狂気」になるのではないかと思います。もちろん、ある一つの出来事に複数の意味があるのは正常なことです。ただし、そうした諸意味は、それぞれの人において、有力な意味を中心に構造化(統合)されているべきもので、まったく独立した7つの意味が並立しているという状態は、たしかに「狂気」といってよいのではないかと思います。, もちろん、七つ頭というからには、キリスト教的「七つの大罪」と関係があるだろうから、七つの大罪風に解釈してもかまわないんですが、七つの大罪というと、「高慢」「激情(憤怒)」「羨望」「堕落」「貪欲」「大食」「肉欲」のことですね。ちなみに、2008年に発表された新七つの大罪は、「遺伝子改造」「人体実験」「環境汚染」「社会的不公正」「貧困」「過度な裕福さ」「麻薬中毒」だそうです。ローマ教皇庁が発表したものだそうですが、新七つの大罪は、適当にその辺にある現代的で倫理的かもしれない問題を拾ってきただけのようで、哲学的基礎がないように思われます。, それはさておき、古典的な七つの大罪では、いわゆる「悪徳」とされるものがその内容になっているわけですが、(ライナはたぶんそう考えていると思いますが)、竜の「狂気」の正体を単なる「悪徳」としてしまうのは、少なくともセンフの考えではちょっと違うように思います。どうしてかというと、竜の狂気が排出された後に、竜は「正常な人間」になってしまうわけですが、それに対してセンフは、「残されたものは、持つ価値のないものだ」と述べているからです。, つまり、狂気が「七つの大罪」的なものだとして、そうした「悪徳」が取り除かれて「正常」な人間になるなら悪いことじゃないように思うわけですが、センフの考えでは、そうした「正常さ」は、少なくともそれだけでは「価値がないもの」だとみなされているわけですね。, それでは、「狂気」が単なる悪徳じゃないとするとなんなのか?

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